人生ストーリー

佐西人生史

【佐西人生史】

1つの思い出として、節目として30年の人生を振り返ってみたいと思います。
思い出して書いているので正直に言うと思い出したくない事ばかりです。
涙ぐんで書いているところもあります。

怖いもの知らずな小学生

小学生の時は怖いもの知らずでした。でも痛いのは苦手だったので喧嘩とかはあまりしなかったです。
とにかく遊ぶのが好き。学校が終わるとすぐに遊びに行き、公園で鬼ごっこや公園にある木や建物の上に登って遊んでいました。
宿題をやってから遊びに行かないと親から怒られていたのできちんとやって遊びに行っていた記憶があります。
運動は小学校入学と同時に始めた水泳と小学校2年生から姉の影響で始めたソフトテニスをやっていました。
水泳は小学校4年生まで、ソフトテニスは大学4年生までやっており、今現在も趣味の範囲内で教えたりしています。
水泳をやめたきっかけもソフトテニスです。ソフトテニスが楽しすぎたので集中してやっていきたいと思う気持ちと、水泳とソフトテニスをやっていたら遊ぶ時間が無くなるので水泳をやめました。
友達といることが楽しい、好き。喧嘩は嫌い、友達ととにかく楽しいことや面白いことをした。
嫌なことがあったり、自分が言いたいことをきちんと言えなかったり、相手のことを気遣い言葉を選んでいたら何も話せなくなりしてよく泣いてたのも覚えています。
そのような小学生生活をしていました。

絆は脆いことがわかった中学生時代

中学生活が始まって周りは変化していきます。
当然ですが大人になろうと変化していきます。
中学生になって鬼ごっこをまじめにするのはいなくなりました。
TVゲームをやる人、親の教育により勉強に力を入れる人、部活動に入ったため夕方は部活になった人などなど変化していきました。
私も中学時代はソフトテニス部に入ったので、夕方は部活をして週3日は夜22時までスクールに通っていました。
自然と周りの人間関係や環境は変わっていきます。
小学生時代に遊んでいた人とは遊ばなくなり、部活ばかりで土日は練習や大会があるので遊べない。
たまに空いた土日で遊ぼうとすると予定が合わず遊べない。そんなことばかりでした。
遊べた時はやはり楽しかったです。
そんな関係が終わりになる時が来ます。
忘れもしないです。
中学2年生の8月。
すべてが変わり始めた月です。
全国中学校ソフトテニス大会があり出場しました。
結果は5位です。(個人戦も5位でした)
大会の形式は団体戦。1ゲーム4ポイント先取。7ゲームやって4ゲーム取った方が勝ち。団体戦としては、3試合して先に2回買った方が勝ちというルールです。
準々決勝で私に出番が回ってきたときに、1対1の引き分け。3番目の試合で勝敗が決まるという場面でした。
緊張は半端なかったです。
勝ちたい。
試合は混戦して3―3で最終ゲームへと突入しました。

「アウト」

審判の声が会場に響きました。
結果は私の負けです。
緊張のあまり思い通りプレーができなかったことが悔やまれ大泣きしました。
結果は全国で5位。
来年必ずリベンジすることを胸に誓って会場をさりました。

全国大会が終わって3日、4日夏休暇をしてすぐに練習が始まりました。
その時に誰が1番手になるのか、誰と誰が組むのかという状況になっていました。
当時の監督は違うスポーツでは全国1位を何度も経験している方でした。
そんな監督だからこそ、全国大会で5位という成績の私たちに対して、技術面は教えれないとはっきり言って、精神面を何とかフォローしようとしてくれました。
そのため、誰が1番手になるのか、誰と誰が組むのかというのは部員に任せていました。
任せた結果起きたのが”いじめ”です・

最初は些細なことから始まりました。
話をしていても、私が話すと反応が冷たい。
遠征に行くときにお前はあっちに座れよと距離を取られる。
練習中の球出しのやり方が周りと明らかに違う。
などから始まりました。
私がいじめの対象にあったのは、私の学校の監督からではなく周囲の中学校の監督たちからの評価です。
「3年生になったらさにしさんが1番手なんですよね?剛柔の両方がありますよね!将来が楽しみです」
と言われていました。
流れでは当然私が1番手になります。強い人と組むことは普通です。
それをよく思わない人がいたということです。
それが誰か。

私が組んだ人です。

小学校からの知り合いで普通に遊んだりしていたのでその人が中心にいることが分かった時ショックでした。
いじめてきた理由は聞いたことないので知りませんが、私と組みたくなかったことが理由なのかなと思っています。
結果最後の夏の大会は違う人と組んでいますから。
そんないじめがありながらも地方大会では優勝、準優勝の結果を残していたので周りからしたらいじめがあっているなんて思ってもいなかったと思います。
私自身もソフトテニスを通して知り合った友達がいたのでそんなことを知られたくなかったという気持ちがありましたし(当時、どうせこいつらも裏切るんだろうなとおもっていました)ソフトテニスが楽しかったので嫌な気持ちを飛ばしてくれたからです。
県の選抜メンバーにも選ばれていて、選抜メンバーとして全国大会ににもでました。
選抜合宿は地獄でした。
連絡事項は回されない。
練習メニューを把握していないので選抜監督に怒られる。
練習ができていないので試合には勝てなくなる
こんな感じで選抜合宿をしていたら1番手は降ろされて3番手になりました。

この環境下のなか挑んだ全国大会は・・・・

初戦敗退。

かなり監督から怒られました。
周囲からの期待を裏切ったこともあり周囲からも落胆されました。
この時はなぜか泣きませんでした。
ベンチに戻ったときに隅っこで体育座りをして下を向いていたことを覚えています。

ここまでが2年生の3月までのお話です。
中学生3年生になってからは、初戦敗退と練習に対するまじめさが足りないという評価が加わったためより練習ができなくなりました。
練習中は球拾い、練習しても球出しは適当。試合形式になると仕方なく加えてもらえる。ミスすると「はぁ・・・」とあからさまな態度を取られる。
この環境が最後の大会が終わるまで続きました。

この状況でもソフトテニスを続けた理由はスクールの先生が熱心に教えてくれたからです。
選抜の監督に対して、「お前にさにしを預けたら、打ち方から何からおかしくなった。」と話してました。
そして私には全国大会には調整するから少しづつ変えようと言ってくれ打ち方の矯正が始まりました。
地区大会まで1カ月なかったですが、「お前の実力なら地区大会や県大会でも負けないから大丈夫」と言ってくれたので打ち方を矯正する方向でいきました。

地区大会の日。
矯正しながらの大会でしたが、団体戦は余裕で優勝できました。
団体戦の表彰式が終わり、帰ろうとしていると選抜監督が私の方に来て、胸倉を掴まれました。
「なんなんだあの打ち方は?あんなふざけた打ち方をするな!八倒すぞ!!」
と胸倉を掴まれ壁に押し付けられて言われました。
あまりに衝撃的で怖かったので今でも覚えています。選抜監督の名前も覚えていますが書くといろいろと問題があるので書きませんが。
「明日個人戦だからふざけた打ち方すんなよ。」
と言われ胸倉を離されました。

個人戦の日。
私の試合の度に選抜監督は見に来ます。
スポーツやっている人ならわかると思いますが、自分の型を180度変えて勝てるほど甘くはないです。
右利きの人が左手て練習もなく試合をして勝てと言われているようなものです。
結果は市大会で5位でした。
前年全国大会5位だったのが今年は市大会で5位です。
全国大会までに調整してくれるといったスクールの先生への申し訳ない気持ちから隠れて泣きました。
そして負けた私を見る満足そうな選抜監督の顔はよく覚えています。
ちなみに私以外の人たちは個人戦でも県大会まで駒を進めています。

私の中学生の個人としてはすべて終わりましたが、まだ団体戦では残っているので部活は続きます。
県大会までの日部活は続きます。
相変わらず練習はできない、誰も話してくれない。は変わりません。
ある日練習試合がありました。
練習試合相手の監督からは「残念だったね・・・」と言われましたが、「何も知らないくせに。」という気持ちが強くて「まぁ・・・」みたいなことを言っていた気がします。
練習試合は試合をするので試合をしていない時は暇になります。
試合を見ていたり、各自練習したりするのですが、私は練習をしていました。1人でサーブ練習をしていました。
それを見ていたのが、相手の監督です。
あとから聞いた話ですが、「1人で練習をする。こいつは違うと思った」と話していたと聞きました。

不思議ですよね。

私は、練習相手がいないから1人で練習をしていました。
それを見て他人は”意識が高い人間”と捉えたみたいです。
評価は人それぞれですよね。
本当の理由を知った時、その人はどうするのかなと思いました。

その後は団体戦で県大会も優勝してブロック大会までいきました。
結果は2回戦敗退です。

ルールは最初のほうに書きましたが、団体戦は2回買った方が勝ちです。
私は2番目にでました。
1番目の結果は負け。
あと1回負けたらチームが負けるという場面で私の番が回ってきました。

負けました。

負けた試合、私が負けを確定させました。
手を抜いたとかではないです。
最後のポイントが終わったとき、私から出てきた気持ちは

「やっと・・・すべてが終わった・・・」

です。
肩の荷がおりすごく軽くなりました。
すべてから解放されるというのはこのことなのかなと思いました。

部活をしているときは辛過ぎて死のうとしたこともありました。
周りに言えない、先生に言ったとしても何も解決してくれない。
私の精神を壊すためかわからないですが、私の親友に根回しして、「私がくず人間だからもうかかわるの辞めなよ」と吹き込み、漬け込んで仲良かった友人を私から遠ざけ、部活以外でも1人にさせて中学校ではボッチになったりしました。
さすがに死を考えますよね。
でも死ねなかったんです。
家で誰もいないときに、キッチンで包丁をのど元に当てましたが、親の顔が頭に浮かんで一思いに行くことができなかったです。
なので日々耐えることで中学校生活を送りました。

中学校生活で学んだことは
・頑張っても報われない
・潰される
・絆は脆い
です。

そんな生活を送った私は逃げるように県外の高校に進学しました。

できるだけ目立たないように?な高校生活

高校はスポーツ推薦で県外の高校に進学しています。スポーツ推薦といっても入学が確定するだけなのでお金は一般生と同じだけかかります。
中学時代学んだことを活かして高校生活は自分をセーブして過ごしていました。
できるだけ周りと同じに過ごす。部活の時は全力なんだけどどこか全力じゃないような取り組みをしていました。
普段は周りとできるだけ同じようにするため会話を合わせて話をする。課題などは全部自分1人でやる。
このころの私はもはや全員が敵に見えていたのかもしてません。(笑)
部活では、校内の練習試合をしても「この先輩勝つとあとあと面倒なんだよな・・・」と思うと勝っていても自分からミスしたりして試合をコントロールして負けていました。
1年生から50人中6人しかいないレギュラーメンバーの1人としてやっていたのでもちろんインターハイ(全国大会)は3年連続で出場しています。
中でも1番嬉しかったのは自分たちの代で全国大会へ行けたことです。
最後の3年生の時だけはこのチームでインターハイへ行きたいという気持ちが弱い自分に勝ったので本気で練習して本気で試合に挑みました。
本気で勝ちに行って勝ち取れたからか、代表が決まりインターハイ出場が決まったとき、大泣きして泣いてそのまま胴上げを部員がしてくれたのは思い出として今でも忘れません。
入学当初は、周りは敵ばかりと心を開かずにいた私でしたが、卒業する時には同じ高校の人だけでなく、部活を通して知り合った他校の人などたくさんの仲間にめぐり合うことができていました。
私が心を開いていたかは別として・・・

大学時代へ

挫折して諦めた大学時代

大学もスポーツ推薦で進学しています。
大学のスポーツ推薦は全国で選ばれた5名しか入れないところへ推薦で行きました。
周りは日本代表が普通にいて、雑誌に載っていたスター選手ばかりでした。
こんなレベル高いところで練習ができてプレーができるって素晴らしいと思い胸が躍りました。
・・・
現実はあまくないですね。
試合に出ても連戦連敗。
弱者の烙印を押されました。
でもなんとか再起しようとして練習を頑張りトレーニングにも励みました。
ところが大学2年生の秋にやらかします。
ある大会がありました。
その試合には私も出ました。
結果は私の負けです。
何もできないままに負けました。
練習を頑張り、トレーニングをした。なのに負けた。
その悔しさから負けた瞬間にラケットを地面にたたきつけてへし折りました。
そしてそのまま先輩の声も聞かずに会場を去りました。
その夜。
頭が冷えた私は罪悪感でいっぱいになり、先輩たちのもとへ謝りにいきました。
言われたのは
「もう俺らの代ではお前は絶対に使わないから。使ってほしかったら誠意を見せろ」
この言葉を言われたとき、当然だと思ったので何も言えなかったです。
そして出てきた気持ちは「俺は全国では通用しないんだな・・・」です。
この気持ちになってからは、タバコやお酒、ギャンブルをするようになりました。
バイト代はギャンブルに消える。
奨学金は学費と寮費のため使えない。
でもギャンブルしたいから学生ローンを借りてする。
私の中で何かが壊れました。
ここからは練習に対してのやる気が全くなかったです。
適当に練習して、終わってバイトするかパチンコに行くかのどっちかでした。
試合も勝てなくなりますが、中堅の成績は残していました。
授業の方はというと、何かが壊れた時くらいからほぼ行かなくなりました。
テストだけ受けて単位を取るというような形でした。
大学4年のとき、先輩から会社への誘いがあったので就活をしたくなかった私は何となく話を聞き、大学を辞めて入る決意をしました。

ブラックを過ごした社会人

ここ先は常にブログで上げている内容なので重複します。(すでに読んだという人は現在~へ)
ブラック企業スタートです。
オフィスの床で寝る、トイレで髪を洗うや髭を剃る。会社が家などなどは普通です。
では本題に入っていきます。
私の入った会社は、大学に行きながら会社へ属し働けるといった会社でした。
「え?インターンってこと?」とよく聞かれますが違います。
昼間は大学へ行き、夜は会社へ行き仕事をするといったことをやっていました。
その時やっていたことは、夜会社へ行き、自分の携帯の電話帳から家の近くに住んでいる人をリストアップしてかたっぱしから連絡をするといったことでした。
連絡をして何をしていたかというと、

1、「久しぶり!元気~?」と軽く挨拶
2、雑談をしてると思いこませ、現状のヒヤリング。(現状に不満はないのか。将来の夢は?不安は?など)
3、話をして久々に飲もうよとアポ取りをする

というようなことをしていました。
今思えばネズミ講みたいなことをしていました。
当時は上司から洗脳されていたのでこれが悪いこととは微塵も思っていませんでした。
会社に入る際に、研修という名の洗脳が行われます。

会社へ入社する際は、まずABCを組みます。
対象者Aに対して、Bが勧誘します。
2人で飲んで遊んでいるところへBが知り合いが近くにいるから呼んでもいいかと質問します。
9割のAは「いいよ」と承諾します。
Cの到着を待っている間に、「Cという人はこれだけすごい人なんだ」と今からすごい人が来ると意識上げしておきます。
ちなみにこの話をすることで、Aは「すごい人が来る。Bはそういう人と知り合いなんだすごいな!」と思わせることが狙いです。(そう教えられました)
Cが到着したら、挨拶し「こういう人です。(すごい仕事ができる人です等、すごく偉い人的な話をします)」とBがAに紹介します。
紹介が終わったら3人で、Aの緊張が解れるまで雑談して解れた所を見計らい勧誘をします。
勧誘し、仕事の話を聞きたいとなれば、今度はCの上司に合わせるとなります。
Cの上司に会い、ここで仕事をしたいと言わせるように仕向けます。
ここで上司はOKをせず、「本気でやりたいのかわからないからもう一度考えてくれ」と一度突っぱねます。
突っ張られたAに対して紹介者Bがフォローと動機付けをして、もう一度会いに行ってお願いしようと言いもう一度会いに行く流れを作ります。
2度目に会う時はAが「考えた結果ここで働かせてください」と必ず言います。
その返答にたどりつくまで、フォローと動機付けを繰り返します。
働きたいとAから言わせたあとは会社で面接を行うから会社に来てくれと言い会社で面接を行います。
面接時間は短く。15分から20分で終わります。
合格までも早く、1時間しないうちに採用となりその日から新人社員研修を受けます。
この時の研修の内容としては、会社説明、他企業との違い、日本の給料の上がり方などを研修で受けます。(記憶にあるものとして、借金時計を見せられました)研修も新人研修、コンプライアンス研修、自己分析の3つで時間でいうとおおよそ3時間程です。
流れとしては普通なのですが、とにかくうちの会社はこれだけすごいと言ったアピールが過剰でした。
対象者が18歳~25歳くらいの現状に不満があるような人たちばかりなのでみんな研修が終わったあとは「この会社やべー!!(もちろんいい意味で)これから頑張ろう!!!」とハイテンションでした。
ここまで行くと洗脳完了です。

入社してからは、学生組と学生じゃない組で動きが変わります。

・学生組は学校行って空いてる時間は会社へ
・学校がない組は、昼間は会社の派遣をこなし夜会社へ出勤する

この2パターンで分けられますが、やることとしてはマネージメント業務(当時はそう言われていました)。
自分のチームを自分が作り、そのチームで利益を出していく。
そのためのメンバー集めを最初に書いたやり方で集めていきます。

大学では運動部に入っていたので、引退したら本格的に働くと良い、積極的に行動はしていなかったです。
引退が決まるまでの約半年間はだらだらとやっていました。
体調が悪い(本当)と良い会社を休めば、意識低下=飛ぶ危険ありと会社の人が家までお見舞いに来てくれたりもしました。
ちなみにこの時の会社の給料は当然0円でした。

私の行っていた大学は1月末で授業も試験も終わりました。
2月から会社勤めを本格的にスタートさせました。

ちなみに大学は中退しています。
卒論も通り、あとはテストを受け数単位取れば卒業できましたが、会社決まって働いているし、卒業する意味なくない?と試験ギリギリで思い、卒業することを諦めました。
大学には学部塔があったのですが、そこの事務員に、辞めることを伝えたらすごく驚かれたことを覚えています。
今思えば、ただの馬鹿です。
部活で大学に入ったのにまともに結果を残せなかった。
勉強も、少しやれば卒業できたのに卒業しなかった。
「では大学に何しに行ったの?」
奨学金という名の借金を背負っただけです。
毎月4万。約20年間払わないと完済されません。
怖いのは、当時この状況に何も感じなかったことです。
危機感を感じていないどころか、周りより先に社会人をしていたことをかっこいいと思い、周りを見下している感もありました。
大学に行きながら会社に勤めているが、やっていることはメンバー集めのアポ取りのみ。
しかもその時に集まったメンバーは0人。
チームもできず、利益が発生しないので当然給料は発生しません。
本格的にやればすぐ立場を上げて、すぐお金を稼げると思っていました。
そんな状況なのに、焦りもしない。それどころか周りを見下す。最低な行為をしていました。

2月。大学に行かなくてよくなり会社に毎日出勤するようになりました。
メンバーが集まらないということで、2月からは営業をすることになりました。
営業内容はWi-Fiの親機の設置です。
当時の一日の流れとしては

朝8時出社
出社後回るエリア確認と機材の準備
朝9時出発
10時
エリア到着。ラインまたはメッセージで「現場到着。これより開始します」と報告をして営業開始。
22時(目標獲得件数に届いていない場合は終電まで)帰社準備
23時帰社、締め作業
24時報連相、トーク練習
28時退社
29時就寝

と行った感じです。
件数取れなかった場合は長くなることもありましたが、基本は28時までには帰れていました。目標件数取っていても、周りの補填ということで時間まで帰ることは許されませんでした。
1日2時間寝れれば良いほうでした。
この生活を2月の1カ月間28日間続けました。
給料はいくらだと思いますか?
会社にちゃんと働いたのはこれが初めてでした。
いわゆる初任給だったので額をよく覚えています。
額は16万です。
所得税のみ引かれただけです。
感想としてはどうですか?
私の感想は、「やっぱ社会人ってきついんだな。先輩たちの言っていた通りだ!」です。
社会人の先輩たち(違う会社に勤める)が口を揃えて、社会人は休みがない、給料安い。きついと言っていたのでその通りだとまったく疑問に思いませんでした。
むしろこれから頑張らないと!と思っていました。

3月5日初めての給料が入りました。
額は20時間労働を28日間続けて16万。
感想は以前書いてますのでここでは書きません。
当時貯金なんてなかったので、給料が入って「これで来月までいけるかな。。。」と不安になっていました。
そこへ知らない番号から電話がありました。
電話には出ず番号を調べると、クレジットカードの会社からの連絡でした。
折り返し電話すると、「料金が支払われていない。滞納している」という内容でした。
これは自業自得です。
何書いても自分が悪いので、何も書かないです。
あえていうなら、”無知だった”です。
延滞しているわけですから、当然ブラックにも乗りました。
支払い金額も全部で28万。
全額一気にと言われましたが、さすがに無理なので、分割で払うとお願いして、3月は12万払いました。
このクレカの件では、
・社会的信用の無くし方
・無知が怖い
・契約の大事さ
・自分の愚かさ
というのを学びました。いや、学んだつもりでした。
ですが、この段階でも、「会社で頑張って働いて立場と収入上げればなんの問題もない!」とどこか他人事でした。

このクレカの件が有ったので、3月の残金が4万円になってしまいました。
4万円で1カ月
使う横目として
・電車代
・食事代
・タバコ代(当時は1日1箱吸っていました。今はやめています)
・携帯代
「金がないやつがタバコなんて吸ってるんじゃねぇよ」というど正論は上司から散々言われてたので言わないでください。
使う項目としてはこんな感じです。
電車代に関しては、営業の移動が多いので往復で1日2000円くらい普通に飛んでいました。
生活ができず、電車に乗ることもできず、充電が切れ、OJT予定だった所にいくことができず、激怒されまくったこともありました。
「お前のために言ってやっている」
「こんな良い会社他にはないぞ」
「この会社だからお前はやっていけてる、他で通用するわけないだろ」
「何かあったらいつでも相談に来い」
などが私がよく言われていた言葉でした。
「やらかしたから怒られるのは当然。なのに、私のためを思って言ってくれている。優しい会社だな」と泣きながら思っていました。
当時は何も知らないのでピュアだったんです(笑)
そんな私でも会社はチャンスをくれました。
新規事業の立ち上げメンバーに選んでくれたんです。
ベテラン1名、新人1名、私、以下でメンバーを組み立ち上げました。
事務所を借り、机などのオフィス用品を揃えて、取引先に挨拶して。。。といろいろ経験させてもらいました。
事務所は借りましたが、寮になる予定の部屋を借りていなかったで、事務所で2週間風呂も入らず寝泊りしました。
ボディシート、パンツは前、後、裏返して前、後と4回使えること、段ボールは布団として以外と寝心地がいいことなど、経験できたことは今ではいい思い出です。
書いてて思うのは、それで営業に回っていたので、訪問したお客様に申し訳なったなと思います。
新規事業は、朝から晩(21時)まで営業。その後1時間30分かけ本社へ帰社。報連相、研修、トーク練習を深夜4時までやって7時には電車に乗り出勤。を繰り返していました。
ベテランをのぞき、全員の意識低下が激しく、うまく行かなかったです。他の部署から優秀なメンバーが来て立てなされました。
そこからは私も立ち上げメンバーから降ろされ、違う部署に移動させられました。

移動する少し前の話ですが、立ち上げのチャンスをもらってそれを活かせなかった。
他の部署で優秀な方々が来て立て直ししてもらった。
自分のちからが及ばず、悔しくて、それでも毎日営業に出て、帰ってきて報連相して、トーク練習して、毎日怒られてを繰り返しました。
メンタルがやられましたが、自殺しようとも考えましたが、そこまでの勇気は無かったです。
なのでリストカットをすることにしました。
「自分を傷つけることが気持ちいい」
リストカットをしているうちに人は切っても簡単に死なないと思い始めて、上司にいつも通り怒られているときにふとカッターを手に取り、カッターの刃を出し入れしてよくない事を考えていました。
上司はそれを察知したのか「とりあえずカッターを置け」と注意されたのを覚えています。
それから少しして移動の話が出ました。

結論を先に書いて置くと、社会人の基礎、営業の基礎等の会社で働着方、社会での生き方の基礎を教えてもらいました。
部署移動して出会った上司が偉大過ぎて心が軽くなりました。
移動して「初めまして」と挨拶をして一番の驚きは、その部署の雰囲気が良すぎたことです。
夜は部署のみんなで飲みに行き、仲良くなる場を作ってくれました。
翌日から現場に入り、そこからいろいろな基礎を上司に教えてもらい、営業の件数も取れるようになり、取引先との交渉の仕方も覚え、やれることが多くなりました。
自分が成長していることを感じることができました。
そのような日々が約半年間続きました。
環境はとても大事です。
このとき出会えた上司には感謝しかありません。

ある程度成長してきたときに移動の話が出ました。
今度は、管理職として部署を立ち上げ回してほしいとのことでした。
部長がいて課長(建前上)として私が入るという形で提案されましたが、当時の自分は自信があったので受けました。

移動してすぐはとにかく頑張りました。営業マンが働きやすいように準備したり、取引先を交渉したりとにかく良くしようと頑張りました。
4カ月目で心が折れました。
思うように業績が上がらなかったのです。
管理職として回されているので、当然怒られます。
営業マンのメンタルケアも私なりですが、頑張ってモチベーション管理をしていたつもりです。
結果が出ていないのでやっていたことが違ったのかもしれません。
営業件数の数は取れるが、クレームがめちゃくちゃ多いという人もいて(私の上司です)、「クレームが多いのはお前の指導が悪いからだ」と本社に呼び出されて殴られたこともあります。
殴られたあとは「営業だから、顔は殴らないであげた。ありがとうは?」と言われたことも覚えています。
いろいろなことに耐えてやっていましたが、心が折れました。それが4カ月目です。
折れたあとは、めっちゃ頑張ってる”風”でやりました。
怒られないために言い訳をめちゃくちゃ考えました。
意識低下されていると思われると意識上げと言って上司から「頑張ろうな!」的な電話がかかって来たり、本社へ3時間程かけて行かないと行けなかったりとめんどくさかったので、意識高いふりも頑張ってしました。
そんな中ある出来事がありました。

会社で車を購入することになったのですが(営業で回るのに必要)、早急に必要だから早くしろだななんだのと、かなり急かして納車させていました。
関係があったディーラーさんのようで、納車はすぐにしてくれていましたが、駐車場を確保していなかったのでコインパーキングに止めていました。

ある日、営業が終わり本社へいくことになっていたため購入した車を使い高速道路で本社へ行きました。
行きは大丈夫だったのですが、帰り道、車がパンクしました。
すぐにJFAを呼び、車に積んであった呼びタイヤで交換したのですが、問題がひとつ見つかりました。
車は中古で買ったのですが、名義変更がされていなかったのです。
ディーラーの方に確認すると、「車を買った際にとにかく急げと言われたので整備してすぐに渡した。名義変更はそちらでやると聞いていますが?」と返答がありました。
何も聞いていない私は、本社へ確認します。
本社からは「それなら名義変更行けよ」と言われましたが、名義変更などやったことが無いのでやり方がわからないのでやり方を聞いたら、「そんなの自分で調べろ」と電話を切られました。
陸運局に行き、名義変更をしようと思いましたが印鑑がないためできませんでした。
このことを本社に言うと、確認すると言われそこから連絡がありませんでした。
この間約5カ月ですが、ずっとコインパーキングに止めっぱなしでした。
2か月くらいだったかな?レッカーで移動されました。
ちなみに金額は約16万ほどでした。
このパーキング代の件でも会社ともめています。
最終的には自腹になっています。

駐車場を確保していなかった理由として、本社課長の許可が下りなかったからです。申請→課長→部長→役員→役員→経理の順で申請が通ります。
その時にいたところは雪国だったので、営業マンの怪我や、営業に必要な機材の破損を防ぐために、寮がるマンションの真向かいにある駐車場を私は抑え申請しました。
月極で12000円でした。
拒否された理由としては高いという理由でした。
雪国で足場が不安定であること、毎日使うので駐車場が遠いと事故のリスクも抑えれること、場所が近いので、機材の破損(雨で壊れることも含め)の可能性も抑えれることは伝えましたが許可はおりませんでした。
逆に提示された条件が月極で高くても6000円以下。
探し方が甘い。もっとちゃんと探せでした。
この条件に関しては、現場の人間と話し合い、駐車場は近いほうがいいということでもう一度これだけのリスクがあるから12000円のところに決めてくれないかと相談しました。
結果はだめでした。
諦めて違う場所を探し始めましたが、どうしても納得行かず、役員に直接相談しました。
すると「何も聞いていないけど何それ?:と言われました。
ことの経緯を話しましたが、いろいろ思うことがありました。
”ちゃんと報連相をしろ”
私がこの会社に入ってずっと言われていたこと、
「報連相をしないからお前は・・・」
「なんで言わないんだ」
「些細なことでもちゃんと言えよ」
「報連相は社会人として当たり前だろ}
など散々言われてきたのに、
「あれだけ散々言って、怒ってきて、殴って来たのに、お前(課長と部長)らもやってねぇじゃん。」と私は率直に思いました。
勤めて約3年。この時辞める決意が固まりました。
こうなればもう後は早いです。
本社に言われた通り、6000円の駐車場見つけました。
自転車で15分です。
これに対して、本社の課長と部長は「やればできるじゃん。会社の経費を6000円節約したのは偉いぞ」です。
雪道を自転車で15分も走ることの大変さと危険度がわからないのでこのようにいってきたのだと思います。
また辞めると言ってからは手のひら返したように優しくなりました。
本社の課長と部長に呼び出され行くと、「状況をわかっていなくていろいろ言ってごめんな。もう少し会社にいてくれないか?」と謝られましたが、そんなこと聞きたくないし、手のひら返しが逆に腹立ちました。
辞める意思が変わらないことを伝え約1カ月後辞めました。
いろいろと省いていることがありますが、これが私の最初の会社での出来事です。

現在~

現在は知り合いの家族経営の会社に就職しています。
今は世代が変わり2代目になっています。
組織に属したことが無い人が組織の長。つまり社長になっています。
・ルールを知らないスポーツで大会に出場して優勝する
・全く勉強をしてない国家試験を受けに行く
この2つくらい無謀なことです。
何があったなどを書くとまた長くなるので書きませんが、物事を知らない、わからない人が社長をすると内部も外部も崩壊していくことはわかると思います。
私自身も働いていてここらが潮時かなと思ったので辞める決意をしました。
約5年務めました。
これからはレールの上を歩く人生ではなく、自分で決めて歩く人生を歩んでいきたいと思います。

最後に

最後まで読んでいただきありがとうございました。
社会人の話に関してはすでに書いてあるものなので重複してしまいましたが人生史ということで書きました。
今後精進していきますのでよろしくお願い致します。